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27、天道のルーツ

 天道の歴史は古く、人に道が降されたのは、今から約五千年前にさかのぼります。修行者がいかに道を求めても、一人から一人にしか伝えることが許されなかった単伝の時代から、広く庶民に開かれた普伝の時代にいたりました。

~命がけで継承された道~
天道は、天地が生まれ、世界が成り立つ前からずっとあり続け、この世に降ろされて以来、一人から一人へ、たった一つの天命は、徳の高い帝王や聖人の方々の間でひそかに受け継がれてきました。この流れのことを『道統』と言います。道統の祖師たちはそれぞれ、すべてを捨てて道を求め、得てもなお「決して断絶してはならない」と命がけで道を護り、継承者の選抜に大変な苦労をして来られました。そしてたった一人の継承者以外の何千何万にのぼる弟子たちには、極楽浄土への救いの道を伝えることは出来ず、来世の縁を結ぶために教えのみを残しました。

~根源の道と、枝葉の教え~
 教えはやがて経典として残され、宗教宗派を生むこととなりました。人は死の苦しみや生の苦しみから逃れようと、その教えを求め続けてきました。しかし、教えとは道を得た聖人の方々がその時代、その土地、その人々にもっとも伝わりやすいように様々な形で示したもので、救いの道そのものではないことを誰も知りません。唯一の救いの道は、老子、孔子、釈迦や達摩(だるま)などの道統祖師の徳によって護られ、約五千年を経て今、いよいよ広く庶民が救いを得られる普伝の時代へと突入したのです。

~天命日本へ~
 やがて天命は、中国から台湾を経て日本に渡り、さまざまな辛苦を乗り越えて、天命の中心が日本に移されました。人だけでなく、いかなる霊も救いつくせる体制が確立し、まさに真の世界平和、地上の楽園が顕現されようとしています。
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26、三期と末劫

~青陽期と紅陽期と白陽期~ 
 天地の開闢(かいびゃく)から天地が極まり尽きるまでの大きな宇宙の巡りを一元(十二万九千六百年)と言います。その一元の中に子から亥までの十二会がありますが、会が変わる度に気象をはじめとした大きな変化があります。さらにその中にいくつかの期間があり、その期ごとに平和な時代と劫があります。このように平和な時代と劫の時というように、いくつかの波を越えてここまで来ました。
 今は天地の開闢から六万年以上を経過した時であり、午の会と未の会の変わり目に来ています。この時に三つの期間があり、またそれぞれに劫があります。
  第一期は青陽期(せいようき)と言い、紀元前2900年ごろから紀元前1100年ごろまでの1886年間です。この時は九つの大きな災いがありました。特に洪水等の水による災害が多かったため、「龍漢水劫(りゅうかんすいきょう)」と言います。ノアの方舟時の大洪水もこの時のものだと言われています。この時代は季節で言えば春に当たり、青い色を最上として、好んで青色が使われていました。また蓮(はす)で言えば葉の時であり、神仏への拝み方も蓮の葉を模して片手で行なう時代でした。
 第二期は紅陽期(こうようき)と言って青陽期の終りより西暦1900年(明治の中期頃)までの約3000年間です。この時は戦火等、十八回の大きな災いがあったため、「赤明火劫(せきめいかきょう)」と言います。この時代は季節で言えば夏に当たり、赤い色が好んで使われました。また蓮で言えば赤い蓮の華であり、拝み方も両手で拝みます。
 第三期は白陽期(はくようき)であり、今の時代がそうです。この時代は10800年間続き、白陽地上天国と呼ばれる平和な時代に入りますが、しかし平和な時代を創るには、今までの因業の清算が必要となります。九九八十一の水火風による大災難がおとずれるとされます。特に風による災いが大きなため「延康風劫(えんこうふうきょう)」と言います。第二次世界大戦、そしてそこで使われた原爆による爆風等による災いはその一つであると言われています。この時代はすべてを根源に返すという意味で蓮の根、すなわち白い蓮根に象徴されます。天道の拝み方が手を重ね下に手を着くのは蓮根を表わしているのです。
 それではなぜ末劫は起こるのでしょう。それは人類の積み重ねて来た因業によるものです。この世は因果律の世界です。原因があってその結果となります。人類がこの世を良くしようと努力し、正しい道を歩まない限り、一度作ってしまった悪因はまた次の悪因を作り悪循環を繰り返します。それをくい止めるための自浄作用として、淘汰清算の嵐によりなされるのが末劫です。しかし決して劫のみが降される訳ではなく、劫と共に救いの道も同時に示されます。すなわち強制的に汚れを落とすか、また自主的に因縁の清算を行うかのいずれかが求められます。
 末劫は悪業の累積により訪れるものですが、その襲来は突然に訪れるものです。ちょうど事故の場合でも今まで順調に走っていたものが、何かに衝突した瞬間に突然大惨事となります。大地震にあった犠牲者も前日までは次の日も今日と同じように平穏な日常が訪れると思っていたことでありましょう。この地球も南北の極が入れ替わってしまうポールシフトのようなもので、突然に人類が消滅してしまうとも言われています。この突然に訪れる末劫を未然に食い止めて来たのが天道における護摩の挙行であり、個々の行道をはじめとするさまざまな因縁解消であります。特に白陽収圓護摩供は一年間の因縁解消の行道の集大成であり、新たな未来を切り開く重要な護摩供となります。

25、霊数について

~霊団の持つ功徳得点~

 よく霊数を上げるとか、霊数調整という言葉が使われることがありますが、この霊数とは一体何でしょうか。
 霊数を簡単に言うならば、一人の人間を構成する霊団の体重のようなものです。霊の重さは、軽ければ軽いほど上に上がって自在となり、逆に重ければ下に沈みます。ですから気天神は軽く、点数で言えばプラスの得点を持ち、地獄の霊は重く、マイナスの得点を持ちます。
 一人の人間は、その人のご先祖や縁ある六道の霊団によって構成されていますが、人によってその六道霊団の構成はさまざまです。ある者は上層の気天神(守護霊)が配置され、ある者は地獄霊、餓鬼霊が多く自分の霊団の中にあるというように、その霊団の構成によりその者の霊数が決まってきます。
 例えば霊団の重さで言えば、上層の霊が風船の如くその者を浮き上がらせ、その下にオモリの如く下層の霊がぶら下がって、体重計に乗ったときに表示される重さが霊団全体の重さであり、その人の因縁の重さとなります。また点数で言うならば、気天神はプラス三十点、私自身の点数がプラス十点であり、地獄霊がマイナス五十点だとすれば、私自身はプラスの点数を持っていながら、その差し引きの合計ではマイナス十点となってしまいます。
 この霊数というのは、自分の霊団の持つ功徳得点であり、この霊数によって同じことをやってもその結果が変わってきます。霊数が低ければ何をやってもうまくいかなかったり、何もやる気が 出なかったりしますし、霊数が高ければ、物事がトントン拍子に進んだり、障害があってもはね退けることができます。
 では、この霊数を上げるにはどうしたらよいのでしょうか。超抜などによって六道霊が引き上げられた時など、昇格や降格などにより時として霊団の入れ替えとして行われることはありますが、通常は霊団全体の功徳得点を上げることで行われます。単純に強力な守護霊をつけるとか、マイナスを排除するということではありません。通常はプラスが多ければ、それに比例してマイナスも多くなります。また六道霊団は一連托生ですから、その一部だけを変えるということはありません。
 霊数を上げるのに一番大切なことは、六道の中心である自分自身がその霊性向上、自分を良く変えたいと自覚することから始まります。そして伝道、救霊を実践することも霊数を上げることに繋がります。具体的には、護摩木などの道具を奉納することも霊数を上げる方法の一つですが、祈願会に参加して人のために祈ることは、その祈願会に参加した他の人の霊団とも和合し、大きく霊数を高めることができます。
 またその時点での霊数は同じであっても、その人を依り代とする霊団の大きさによって霊の器が変わってきます。大切なのは如何に人を思い、救っていくかが霊数、霊器に関わってくるということです。

24、本性と魂魄

~魂の成長のために~
 私たちの本性、すなわち元なる心は親神さまよりの分け御霊であり、なんの汚れもない純真な霊性を持って光り輝いています。理天より来た如くの霊という意味から、如来性や仏、すなわちの心という意味で仏性とも言います。
 しかし、霊がこの輪廻の世界に降ろされてより約六万年、その霊性は曇り、その霊光はそれぞれの霊によって大きな違いが生じてしまいました。本性は全ての霊が等しく純真であるのに関わらず、どうしてこのような違いが生じたのでしょうか。
 それは霊がこの世で修行するために魂魄(こんぱく)という修行の道具が与えられているからです。霊の修行の場は三界、すなわち気天、地獄、象天(この世)ですが、気天も地獄もこの世(象天)での象(かたち)を借りて行なわれています。特に人はその一生の中で多くの霊の拠り代として、ご先祖の代表としてこの世で修行しています。象がなければ罪も作らない代わりに徳も積めないのです。
 「魂魄この世に留まりて怨みはらさでおくべきか。」これは有名な四谷怪談の中のセリフですが、この魂魄とは人の欲心です。どちらも鬼という字が入っているように、邪悪に染められた心であって、人間の呼吸に支えられて存在するものです。魂は肝臓にあり、人間の生死と共に肉体につき、また離れます。魄は肺にあり、人が生まれて七×七=四十九日にて備わり、死んで七×七=四十九日で消え去ると言われています。恋煩いにて胸がキューンと痛くなるのは魂魄の影響だと言われています。
 ではなぜこの魂魄が人に備わっているのでしょうか。

① それは肉体を維持するために必要だからです。欲がなければ人は食事をすることも寝ることもなく肉体を維持できません。たとえて言うならば、水中で活動するのに酸素ボンベが必要なように、この現象世界において本性が肉体に入ると同時に肉体を維持するための欲心(魂魄)が備わるのです。

② この世(三界)は霊の修行のために創られました。霊が逍遥自在である理天では、霊を鍛え成長させることができないからです。たとえて言うならば鉄アレーを持って筋力アップを図るようなものです。何の負荷も加わらなければ筋力はどんどん衰えてしまいます。人が向上しようとするのも欲心があればこそです。本性に魂魄という負荷がかかることによって霊はより成長します。

 以上の二つが魂魄の存在する大きな理由ですが、しかしこの魂魄のために人は心を汚してしまいます。本来の霊の光が太陽のようものであるとすれば、魂魄はそれを覆う雲のような存在であり、純真な本性は曇り、霊光は遮られます。
 この霊の曇りを掃い霊の成長を図るのが本来の目的です。肉体を維持するための最低の欲は必要であっても、それ以上の欲は己れのためではなく、全て霊を救いたいという大欲としなければならないと神仏は説かれます。
 魂魄は本性とは不可分の密接な関係にあるものなので、魂魄(欲心)は滅し切ることはできません。滅するのではなく、如何にコントロールできるかが大切なのです。

23、霊と魂について

 霊と魂、そしてそれに関係する言葉や超抜のための修業と徳積みの要素に関して、御聖訓にて示された内容を基に書かせて頂きます。

 霊とは、魂とは一体何でしょうか。その源は親神さまより生じた原霊(げんれい)であり、すべては親神さまの分け御霊なのです。しかしそれらの霊は、今、地獄に居る霊、そして気天に居る霊、また超抜された霊などさまざまです。これはそれぞれの徳や罪の蓄積の結果によるものですが、元々は同じ原子霊でありラウムさまの子供です。しかしどうしてそのような差ができ、何が変化してそうなったのでしょうか。
 霊魂も、人間が体と脳とに分かれるように、または物理学で説かれているような一つの原子のように、原子核と電子の関係のような要素を持っています。霊の中心部、仮にここを霊核と呼びますが、ここに本性とその記憶、意識が含まれています。これは霊核の中心部を取り巻く情報であり、天道では本性・魂・魄(はく)と分類して呼んでいるところです。そしてこの核を中心にいくつかの要素が存在します。人間で言えば体、原子で言えば電子に当たる存在です。
 そして人間の容姿や動物の形の表現も、この霊の体の部分、霊光、霊波、霊気の三つの要素が核を取り巻いて形成しています。これは電気の表現に電流、電圧、照度、電束などがあるようなものと考えれば良いでしょう。
 そしてこの三要素は、比例的に拡大または減少して行きます。さらにこの三要素に加えて霊速というものがあります。これは霊(核)がその核を取り巻く三要素をどれだけ中心に引き寄せ、霊の移動速度を増すかどうかの能力です。
 例えば得道とは霊核の構造を変え、光の速度とは比較にならないほどの超霊速を霊に見出すものです。この霊速を与えるためには、絶対量の三要素が満たされていなければなりません。すなわち得道を得てもエネルギー不足では、その効果が得られないのです。ゆえに超抜(審判)とは選抜ではなく、各霊の到達点、修めた結果なのです。

~修行と徳積み~
  「霊光」
 魂が成長する時、または低下する時に発する光です。すなわち成長する霊魂の光は強く、低下する霊魂の光は弱いものとなります。これは原子が一級上の値の原子、例えば水素からヘリウムになる時にα線、γ線を出し、低下する時にβ線やX線を出すようなものです。
  「霊波」
 魂の力を表わします。例えば一つの原子の中には(核)や中性子、陽子、電子以外にそれを保つ力、クオーク・レプトン・ニュートリノ等が存在しますが、それ等は電子の中の引き合う引力的なもの、電磁波的なものなどですが、霊波はその力です。
  「霊気」
 これは単純に原子でいう電子と同じ存在です。しかし霊気を一つの粒子とたとえても、その一つの粒子にも力の高低があります。
 以上が魂の構造ですが、原子ではない霊の性質は次のように分類されます。
  「霊性」
 霊核の持つ情報によるもの。例えば同じ位の神であっても、やさしい気性の神もあれば、厳しい気性の神もあります。それ等は霊核により定まります。
  「霊格」
 これは徳の高低を表わします。霊核を取り巻く三つの要素、霊光、霊波、霊気が高ければ、霊格が高いと言えます。
  「霊位」
 霊性、霊格が整い、一つの眷族の中で地位を与えられた霊の持つもの。すなわち霊格のみでは、霊の地位は与えられません。霊とはいえ、一つの和合集団ですので、気天界で一つの眷族に所属し、霊位を得て部下を持つかによります。どれだけの部下(眷族)の上に位置するかによってその霊位は定まります。これもまた人間と同じで、一匹狼と集団の力の違いです。
  「霊験」
 霊験の意味はご利益を顕わす力とされていますが、霊験とは霊の持つ技能と考えられます。例えば病気を治す霊は医者の如き技能を持つ霊であり、その他のご利益も同じです。ただし人間社会のように免許制ではありません。その技能は、人間の時、また気天にての修業によって得ます。すなわち霊速のある霊、霊魂を核中心に凝縮する能力がある霊が霊験を顕わす力も強いのです。
 徳を積むということは、三つの霊要素(霊光、霊波、霊気)を得ることであり、修業することは、霊速を得ることです。そして修業と徳積みの二つがなければ、気天神として人間社会には働き掛けられません。それはその気天神を六道の一部、または守護霊とする人間にも大きく影響し、その人間の霊数をも左右します。それは霊能として人間にその力が顕われてくることもあります。それが霊夢、霊言、霊聴、霊査、霊視といったものです。
 しかしどんな能力、才能があったとしても、大切なことは人も霊も修業(己れの因縁清算、業を修めること)と徳積(善業による霊の成長、向上)がなければ道を歩む本来の意味がないということです。
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